50×50 ESSAY 01


読書の深宇宙

港千尋

 

わたしがいま手にしている『言葉の宇宙船』には、たくさん書き込みがある。「100の読者、100の経験」の連載のそれぞれの回で、読者が選んだ箇所に下線が引かれている。どんなところが引用されているのかがひと目でわかる。違う人が同じところを選び、別の感想を書いているのも興味深い。パラパラとページを捲りながら、対話の時点では思ってなかったこと、活字にした時点では考えていなかったことに、気づく。そしてだんだん不思議な感じがしてきた。

 

あまり自著を読み返すほうではない。ふつう本にする段階で、著者は執筆から数度にわたる校正にいたるまで幾度も幾度も繰り返し読むから、活字になった時にはもう読む必要がない。たとえ共著であっても、ぜんぶ頭に入っているのだから、あらためてページに下線を引くことなど、ありえない。なんとなくそう思っていたのだが、もしかすると、そうではないのかも、という気がしてきたのだ。本が出来ただけでは、著者はまだ「読めていない」のかも?著者が「自分の活字の読者になる」には、読者の側に出る必要があるのかも?そもそも読者って何だ?

 

「100の読者、100の経験」を読んでいると、本のつくり手が「宇宙船」の外に出て、船外活動を始める様が浮かんでくる。そもそもこの本は、芹沢さんとわたしが、読者としてどんな本を読んできたのかを話すところから始まっている。つまり過去に誰かによって書かれた本の「読者どうしの対話」である。そこから未来の読者によって、どんな本としてのかたちを与えられるか、と展開するわけだが、気づいてみると宇宙船に乗っているのは、著者ではなく読者のほうだった、そんな感じなのだ。

 

こうしてみると、読書というのは、相当に不思議なものである。本が写っている場所の写真も、そうだ。それはまさに読者による読者の風景、外縁としての風景である。でも本を読んでいる姿が写っているわけではないのに、どうして読者の姿を感じるのだろう。読書という行為は、いったいどこで起きているのだろうか。脳のなかなのか、指先なのか。読者というのは、本が生み出す内宇宙のことなのかな?

 

ページを捲り思いを巡らせているうちに、ふと気づくと、わたしは戻ってきてしまったようである。「扉」の前に。 



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