石神 夏希
劇作家(ペピン結構設計/場所と物語)
Q1:本書を読んで印象に残っている一文があれば教えてください。
—————— 芹沢|ええ。でも、今回驚愕の事実が明るみになった(笑)。50年近く経って読み返してみたら、『一千一秒物語』に神戸のことなんか出てこない。スパークが路上に積もる話も出てこない。もしかするとほかの何かで読んだのかもしれないけど、わかりません。まあ、いい加減なもんです(笑)。しかしいまでも、この本が自分を神戸に連れて行ったという思いは強いです。未来派的などこにもないまちを、神戸に重ねていたのかもしれません。
港|読み違いとか、思い込みのことも含めて考えると興味深いですね。
芹沢|そうなんですよ。それでも人を動かしてしまうことがあるとすれば、本というものが、書かれている中身だけのものではないということを、いっそう強く感じます。
[p46 7行目ー 19行目]
港|ラテンアメリカ文学に多い、自己言及的な本の伝統ってありますよね。ホルヘ・ルイス・ボルヘスが代表的ですが、その本の未来までもが、その本の中に書き込まれているような。たとえばガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んで行くと、最後の最後にそれを読んでいる「わたし」がブエンディア家の末裔であることがわかる、とかね。ミヒャエル・エンデもその例かもしれない。今回、わたしたちがつくろうとしている本はこうした本の伝統に連なるんじゃないですかね。
[p125 1行目ー 7行目]
Q2:その一文から感じたこと、思ったこと、考えたことを教えて下さい。
十代の頃、心揺さぶられた本は常に鞄やコートのポケットに突っ込んでお守りのように持ち歩いていた。角はつぶれ、風呂でも読むから表紙はふにゃふにゃ。本がくたびれればくたびれるほど、言葉のひとつひとつが体に馴染み、吸収されて、いつか自分の一部になるような気がした。
この本も感想を書けるようになるまでいろいろな場所へ連れていき、枕元に置いて眠り、最後は風呂で読み返して抜粋箇所を選んだ。何を考えたかというより、そのように本と(芹沢さんの言葉を借りれば肉体的に)近く過ごすことで、受け取るものがある気がする。どこにも書かれていないことをうっかり読んでしまったり、とか。
『はてしない物語』と『百年の孤独』は、どちらも心の同じ抽斗にしまってあって、その理由はまさに港さんのお話されていることが、忘れがたい読書体験だったから。それは小説家になりたかった自分が言葉をつかって、演劇という、そこ(らへん)にいる誰かとのあいだに時間と空間を立ち上げる方法を選んだ理由に繋がっている。
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